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王宮の薔薇園は、午後になると東屋の白い柱に日が差して、いちばんきれいに見える。
テーブルには、今朝焼いたレモンのフィナンシェが並んでいた。殿下は甘いものがあまりお好きではないから、砂糖は控えめにして、そのぶん皮をたっぷりすりおろした。ひと口目より先に、香りが届くように。
……届けたい相手は、まだいらっしゃらないけれど。
「お嬢様、お茶を淹れ直しましょうか」
薔薇のアーチの向こうから、侍女のミナが声をかけてくれる。婚約者同士のお茶会に侍女は同席しない決まりなので、彼女はずっと入口で待っていてくれているのだ。
「ありがとう、ミナ。でも、もう少しだけこのままで」
カップの紅茶はすっかりぬるくなっていた。約束の時刻から、鐘がひとつ鳴っている。
第二王子アルベルト殿下と私、エレナ・ヴァレンティの婚約が結ばれたのは、二年前の春だった。
そのときに決まったのが、月に一度、この薔薇園でお茶をすること。お互いを知るための時間だと、王妃様がおっしゃった。
最初の一年は、殿下はきちんといらしてくださった。お話が弾んだとは言えないけれど、私が王子妃教育で習ったことをお話しすると、黙って聞いてくださった。
変わったのは、この秋からだ。
先々月は「シアの熱が下がらない」。先月は「シアが朝から起き上がれない」。
シア・ローレン様は、殿下の幼なじみだ。お体が弱く、季節の変わり目には必ず寝込んでしまわれるらしい。私は夜会で一度ご挨拶しただけだけれど、細い指で扇を持つ、儚げできれいな方だった。
足音がしたのは、二つ目の鐘が鳴る少し前だった。
「エレナ」
金色の髪を乱して、殿下が東屋に入っていらした。上着の釦がひとつ外れている。急いでいらしたのだろう。
立ち上がって礼をすると、殿下は座らずに、私の向かいの椅子の背に手をかけた。
「すまない。今日は無理だ」
「まあ」
「シアがまた熱を出した。医師が言うには、今夜が山かもしれないと」
今夜が山。それは大変だ。
「それでは、早くお戻りにならないと」
「……ああ」
殿下は、なぜか少しだけ眉を寄せた。何か言いたそうに私を見て、それから目を逸らす。
私はテーブルのフィナンシェを半分、ハンカチに包んだ。
「よろしければ、シア様に。レモンですから、熱があるときでも召し上がりやすいと思います」
「……君は」
「はい」
「いや。いい」
包みを受け取る殿下の手は、ずいぶんと乱暴だった。お急ぎなのだから、仕方がない。
ここで、私はひとつ気になっていたことを思い出した。
王子妃教育の先生は、礼儀作法も、歴代の国王陛下のお名前も、隣国との条約も教えてくださる。けれど、こういうときの心構えは、まだ習っていない。
せっかく殿下ご本人がいらっしゃるのだから、伺っておいたほうがいい。
「殿下、ひとつ教えていただいてもよろしいですか」
「なんだ」
「このように婚約者とのお約束があるときでも、ご病気の幼なじみの方を優先なさる。それが、王族の方の心得なのでしょうか」
殿下の顔が、さっと赤くなった。
「責めているのか」
「いいえ、まさか。わからないので、お聞きしたくて」
「……っ」
殿下は包みを握りしめたまま、私を見下ろした。
「病弱な幼なじみを優先するのは、当然だろう。そんなこともわからないのか」
言い捨てて、殿下は足早に薔薇園を出ていかれた。外れたままの釦が、去り際に日の光を弾いた。
ひとりになった東屋で、私はゆっくりと椅子に座り直した。
当然。
殿下は、当然だとおっしゃった。
胸の中で、何かがすとんと腑に落ちた。
そうだったのね。先々月も先月も今日も、殿下がいらっしゃらなかったのは、約束を軽んじていらしたからではなかった。王族として当然のことを、なさっていただけなのだ。
それなのに私は、少しだけ寂しいと思っていた。恥ずかしい。王子妃になる身でありながら、そんな基本の心得も知らなかったなんて。
「お嬢様? 殿下はもうお帰りに……」
アーチの向こうから、ミナが心配そうに顔を出した。
「ええ。ミナ、私、今日はとても大切なことを教わったわ」
「……はい?」
「帰ったら話すわね」
ミナは、何とも言えない顔をしていた。
帰りの馬車の中で、私は窓の外を眺めながら、殿下の言葉を何度も思い返した。
病弱な幼なじみを優先するのは、当然。
殿下がそうなさるなら、婚約者の私も同じ心得を持つべきだろう。王家に嫁ぐのだから、王家の方々と同じ考え方を身につけなくては。
では、私の病弱な幼なじみは――。
そこまで考えて、膝の上の籠に目を落とした。残ったフィナンシェが、半分。
小さい頃、隣のお屋敷には、よく熱を出して寝込む男の子がいた。魔力が体に収まりきらなくて、冬になるたびに額を真っ赤にしていた。私は母に教わったばかりの焼き菓子を持って、毎日のようにお見舞いに通った。
ルカ・ノーラン。
今では王立魔術院の宮廷魔術師で、王国でも指折りの魔術師だと聞く。私の婚約が決まってから、なんとなく顔を合わせる機会が減ってしまったけれど。
「ミナ」
「はい、お嬢様」
「明日、魔術院に行けるかしら」
「魔術院、ですか?」
「ええ。ルカに会いに行くの」
籠の中で、レモンの香りがかすかに揺れた。
ローレン子爵家のお屋敷は、王都の西の外れにあった。 こぢんまりとした二階建てで、門から玄関までの小道には、手入れの行き届いた鉢植えが並んでいる。壁の漆喰は少し古びていたけれど、窓という窓がきれいに磨かれていて、住んでいる人たちの丁寧さが伝わってきた。 籠の中には、シア様のために焼いたレモンの焼き菓子と、ルカの部屋にも持っていっている薬草茶の葉を少し。熱の多い方には、喉にやさしいものがいい。 出迎えてくださったのは、ローレン子爵夫人だった。 「まあ、ヴァレンティ侯爵家のお嬢様に、わざわざ足を運んでいただけるなんて」 夫人は私の手を両手で包んで、何度も頭を下げた。その目が、私の後ろの侯爵家の馬車と、私の着ている外出着の刺繍を、すばやく行き来したのがわかった。 「娘も、きっと喜びますわ。殿下もよく、あの子のところへお越しくださるのですけれど――」 「お母様」 階段の上から、細い声がした。 「お客様をお待たせしないで」 シア様のお部屋は、二階の日当たりのいい角部屋だった。 長椅子に掛けたシア様は、肩に厚手のショールを羽織っていた。夜会で見たときよりも、さらにほっそりして見える。けれど顔色は思っていたより悪くなくて、私は少しほっとした。 「ようこそお越しくださいました、ヴァレンティ様。お呼び立てして、申し訳ございません」 「エレナで結構です。お加減はいかがですか」 「今日は、ずいぶん楽なんです」 シア様は微笑んで、私に向かいの椅子を勧めてくださった。侍女がお茶を運んできて、部屋を出ていく。扉が閉まると、シア様はショールの端をぎゅっと握った。 「エレナ様。まずは、お礼を。あのレモンのお菓子、本当においしかったです」 「よかった。今日も焼いてきたのです」 籠を差し出すと、シア様は目を丸くして、それから両手でそっと受け取った。 「……こういうものをいただくのは、久しぶりです」 「お見舞いのお品は、たくさん届くのではありませんか」 「花やお薬は。でも、手作りのものは」 シア様は籠の蓋を撫でながら、ぽつりと言った。 「子どもの頃から、熱を出してばかりで。学院にもほとんど通えなかったので、お友達と呼べる方がいないんです」 私は少し考えて、薬草茶の包みも差し出した。 「これは、熱のあるときに飲むお茶です。カモミールと、レモンバームと、薄荷
公爵夫人の茶会から三日が経った朝、私は屋敷の裏庭で、冬に向けて薬草の株を植え替えていた。 カモミールと、レモンバームと、薄荷。どれもルカの部屋に持っていくお茶の材料だ。土の具合を確かめながら根を広げていると、ミナが洗濯籠を抱えたまま、妙に神妙な顔でやってきた。 「お嬢様。少々、お耳に入れておきたいことが」 「なあに?」 「市場で、おかしな言い回しが流行っているそうなのです」 ミナは籠を地面に置いて、声を落とした。 「今朝、出入りの八百屋のおかみさんが申しておりました。旦那さんが、酒場の仲間との約束を優先して、娘の誕生日の食事をすっぽかしたそうで」 「まあ、かわいそうに」 「それで、おかみさんは次の日、旦那さんの夕飯を作らずに実家に帰ったそうです。『旦那様に教わりましたので』と書き置きを残して」 私は移植ごてを持ったまま、瞬きをした。 「……それは、どういう意味なの?」 「公爵夫人の茶会でのお嬢様のお言葉が、もう街まで広まっているのです。昔馴染みを優先するのが当然なら、こちらもそうさせていただきます、という意味で」 ミナの口の端が、ほんの少し持ち上がっている。 「仕立て屋の奥様も、商会の若奥様も、皆さま使っておられるとか。ご亭主が言い返せなくなるので、たいそう重宝されているそうですよ」 「皆さん、勉強熱心なのね」 「……ええ、本当に」 ミナはなぜか、空を見上げて肩を震わせた。 殿下がいらしたのは、その日の昼過ぎだった。 先触れもなく、ヴァレンティ家の玄関に王家の馬車が止まったので、執事が慌てて私を呼びに来た。土で汚れた手を急いで洗い、応接間に入ると、殿下は座りもせずに窓辺に立っていらした。 「エレナ」 振り向いた殿下の目の下には、うっすらと隈があった。 「ようこそおいでくださいました。お茶をお持ちしますね」 「いらない。話がある」 殿下は大股で近づいてきて、私の前で足を止めた。 「街で、妙な言葉が流行っているのを知っているか」 「はい。今朝、ミナから聞きました」 「兄上にまで言われた。お前は婚約者に何を教えているんだ、とな。母上は何もおっしゃらないが、目を合わせてくださらない」 殿下は苛立たしげに髪をかき上げた。 「あれは、そういう意味で言ったんじゃない」 「では、どういう意味だったのでしょう」 私は本当に
茶会の当日、殿下は約束の時刻ぴったりに、ヴァレンティ家の玄関へいらした。 釦はすべて留まっていて、髪も整えられている。私の手を取って馬車に乗せてくださる仕草は、婚約したばかりの頃のように丁寧だった。 「今日は、シア様のお加減はよろしいのですか」 「ああ。……今日は、君との約束だからな」 殿下はそう言って、窓の外に目を向けた。どこか得意げな横顔だった。 私は膝の上で手を重ねて、心の中で時間を数えた。ルカの魔力調整は、三つ目の鐘が鳴る頃から始まる。茶会が始まるのは二つ目の鐘。少しだけなら、ご挨拶をしてから出られるはずだ。 マルグリット公爵夫人のお屋敷の庭には、秋咲きの薔薇が見事に咲き揃っていた。 長いテーブルには十人ほどの夫人や令嬢が並び、焼き菓子の甘い香りが漂っている。 「まあ、殿下。ヴァレンティ嬢も。ようこそいらしてくださいました」 白髪をきれいに結い上げた公爵夫人が、扇を傾けて微笑んだ。この方は社交界でいちばん耳が早いと、王子妃教育の先生がおっしゃっていた。 殿下と並んで席につくと、向かいの伯爵夫人が身を乗り出した。 「お二人が揃っていらっしゃるのは、久しぶりですわね」 「最近、殿下はローレン嬢のお見舞いでお忙しいと伺っておりましたけれど」 くすくすと笑い声が漏れる。殿下の肩が、わずかに強張った。 「シアは幼なじみだ。体が弱いのだから、気にかけるのは当然だろう」 「ええ、ええ。殿下はお優しくていらっしゃるから」 扇の陰で交わされる目配せの意味は、私にはよくわからなかった。 お茶を一杯いただいて、公爵夫人のお庭の薔薇をひととおり褒めた頃、遠くで三つ目の鐘が鳴った。 私はカップを置いて、静かに立ち上がった。 「公爵夫人。たいへん申し訳ございませんが、私はこれで失礼いたします」 テーブルの会話が、ぴたりと止まった。 「まあ。何かご用事が?」 「はい。幼なじみのルカ・ノーランが、今日の午後に魔力の調整を受けるのです。付き添うと約束しておりますので」 「ノーラン……宮廷魔術師の?」 「はい」 隣で、殿下が勢いよく顔を上げた。 「待て、エレナ。今日は俺がエスコートしているんだぞ」 「はい。ここまで送っていただいて、ありがとうございました」 「そういうことではない。婚約者を置いて、他の男のところへ行くつもりか」 声が大
魔術院に通い始めて、五日が経った。一日目は、熱を下げる薬草茶を持っていった。ルカは「熱はないよ」と言いながら、二杯飲んだ。二日目は、床に積もった羊皮紙を少し片付けた。ルカが青い顔で「それは順番があるんだ」と止めに来たので、元に戻した。どこにあったか覚えていたので、怒られずに済んだ。三日目は、お昼を持っていった。ルカは朝から何も食べていなかった。四日目は、雨だった。それでも行った。そして五日目の今日、扉を開けると、机の横に椅子がひとつ置いてあった。昨日までは本の山に埋もれていたはずの椅子だ。座面には、埃ひとつない。「ルカ、椅子が出てきたわ」「……出てきたね」ルカは羊皮紙から目を上げないまま、ペン先で椅子を指した。座っていい、という意味らしい。腰を下ろしてから、私は感心して部屋を見回した。床の羊皮紙も、心なしか減っている気がする。「片付けたの?」「たまたまだよ」「ルカも几帳面になったのね」「…………」返事がなかったので、たぶん照れているのだと思う。昔から、褒められるのが苦手な人だった。今日の籠の中身は、胡桃のパンと、鶏肉と根菜の煮込みだ。煮込みは瓶に詰めて、冷めないように布で何重にも巻いてきた。「お昼にしましょう」「あと少しで計算が終わるから」「昨日もそう言って、結局夕方まで召し上がらなかったでしょう」ルカはペンを持ったまま固まり、それから諦めたように机の上に場所を空けた。煮込みをひと口食べたルカが、小さく目を見開く。「……これ、君が?」「料理長に教わって、少しだけ。お口に合う?」「うん」ルカはそれきり黙って、あっという間に瓶を空にした。黙って食べるのは、おいしいときのルカの癖だ。これも、昔と変わらない。お皿を片付けていると、扉の外から小さな話し声が聞こえてきた。「今日もいらしてるぞ」「ノーラン様が昼休みを取ってる……」「信じられない。あの人、先月は三日寝ずに結界の論文書いてたんだぞ」ルカの同僚の魔術師たちだ。ここ数日、廊下ですれ違うたびに、なぜか拝むような目で見られる。「皆さん、親切ね。昨日はお花を分けてくださった方もいたのよ」「……あいつら、あとで仕事を倍にしておく」「どうして?」「何でもない」ルカはこめかみを押さえて、溜め息をついた。そのとき、窓辺に浮かんでいた青い石のひとつが、ぱちりと音を
「――というわけで、殿下に教わったの。病弱な幼なじみを優先するのは、当然なんですって」その夜、寝支度を手伝ってくれていたミナに薔薇園でのことを話すと、彼女は私の髪を梳く手をぴたりと止めた。鏡越しに目が合う。ミナは、昼間と同じ何とも言えない顔をしていた。「……お嬢様。それは、たぶん、そういう意味では」「そういう意味?」「殿下はきっと、お嬢様に我慢しろと……いえ、何でもございません」ミナは小さく咳払いをして、また櫛を動かし始めた。「でもね、ミナ。殿下ははっきり当然だとおっしゃったのよ。王族の方がそうなさるなら、王家に嫁ぐ私も見習わなくちゃ」「それで、ルカ様に」「ええ。ルカも小さい頃は、よく熱を出していたでしょう?」ミナは私が八つのときから仕えてくれているから、隣のお屋敷に通っていた頃のこともよく知っている。しばらく黙っていた彼女は、やがて櫛を置いて、ふっと息をついた。「……かしこまりました。明日の朝、魔術院へ馬車を回すよう申しつけておきます」「ありがとう!」「ただし、お嬢様」「なあに?」「殿下に何か言われたら、必ず、殿下に教わった通りにしているとお答えくださいませ」「もちろんよ。本当にそうなんだもの」ミナは、なぜか満足そうに頷いた。翌朝は少し早起きをして、厨房でフィナンシェを焼き直した。昨日の残りは、夜のうちにお父様が「これはうまいな」と言いながら全部召し上がってしまったのだ。お見舞いに持っていくなら、焼きたてのほうがいい。ルカは昔、レモンよりも蜂蜜のほうが好きだった。今も変わっていないといいのだけれど。籠いっぱいの蜂蜜のフィナンシェを抱えて、私は王立魔術院の門をくぐった。魔術院の中は、思っていたよりずっと静かだった。石造りの廊下には、薬草と古い紙のにおいが漂っている。案内してくれた若い魔術師は、私がヴァレンティ侯爵家の者だと名乗ると目を丸くして、それから「ノーラン様のお部屋は、その、少々散らかっておりますが」と言いにくそうに付け足した。少々、ではなかった。扉を開けた先は、本と巻物の山だった。机の上にも床の上にも、羊皮紙が雪のように積もっている。窓辺では、青い光を放つ石がいくつも宙に浮かんでゆっくりと回っていた。その山の真ん中に、黒髪の青年が背中を丸めて座っていた。「……悪いけど、報告書なら机の端に置いておいて」
王宮の薔薇園は、午後になると東屋の白い柱に日が差して、いちばんきれいに見える。テーブルには、今朝焼いたレモンのフィナンシェが並んでいた。殿下は甘いものがあまりお好きではないから、砂糖は控えめにして、そのぶん皮をたっぷりすりおろした。ひと口目より先に、香りが届くように。……届けたい相手は、まだいらっしゃらないけれど。「お嬢様、お茶を淹れ直しましょうか」薔薇のアーチの向こうから、侍女のミナが声をかけてくれる。婚約者同士のお茶会に侍女は同席しない決まりなので、彼女はずっと入口で待っていてくれているのだ。「ありがとう、ミナ。でも、もう少しだけこのままで」カップの紅茶はすっかりぬるくなっていた。約束の時刻から、鐘がひとつ鳴っている。第二王子アルベルト殿下と私、エレナ・ヴァレンティの婚約が結ばれたのは、二年前の春だった。そのときに決まったのが、月に一度、この薔薇園でお茶をすること。お互いを知るための時間だと、王妃様がおっしゃった。最初の一年は、殿下はきちんといらしてくださった。お話が弾んだとは言えないけれど、私が王子妃教育で習ったことをお話しすると、黙って聞いてくださった。変わったのは、この秋からだ。先々月は「シアの熱が下がらない」。先月は「シアが朝から起き上がれない」。シア・ローレン様は、殿下の幼なじみだ。お体が弱く、季節の変わり目には必ず寝込んでしまわれるらしい。私は夜会で一度ご挨拶しただけだけれど、細い指で扇を持つ、儚げできれいな方だった。足音がしたのは、二つ目の鐘が鳴る少し前だった。「エレナ」金色の髪を乱して、殿下が東屋に入っていらした。上着の釦がひとつ外れている。急いでいらしたのだろう。立ち上がって礼をすると、殿下は座らずに、私の向かいの椅子の背に手をかけた。「すまない。今日は無理だ」「まあ」「シアがまた熱を出した。医師が言うには、今夜が山かもしれないと」今夜が山。それは大変だ。「それでは、早くお戻りにならないと」「……ああ」殿下は、なぜか少しだけ眉を寄せた。何か言いたそうに私を見て、それから目を逸らす。私はテーブルのフィナンシェを半分、ハンカチに包んだ。「よろしければ、シア様に。レモンですから、熱があるときでも召し上がりやすいと思います」「……君は」「はい」「いや。いい」包みを受け取る殿下の手は、ずいぶんと







